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このページは、全世界の旅人に捧げられています。
女とロマンを求めて放浪するヒッピーKは、はじめて訪れた印度の地で「が〜ん!」と頭をハンマーで殴られたようなショックをうける。そこには、ガンジスの流れのように、太古の昔から綿々と繰りかえされる、人間と動物が混在一体となった生のドラマがあった。 その地でKは、「流れる葉っぱのごとく、生の流れに逆らわず生きてゆきたい!」と思い、流葉(りゅうは)と改名する。ときに,K25才の春であった。
流葉が、日本を出発したのは、1971年5月2日だった。当時の日本は、70年安保で政治の季節は終わり、社会にはしらけムードが蔓延し始めていた。青春の甘い感傷と、未知の土地への憧れとおそれを胸にいだき、流葉は、横浜港大桟橋からナホトカへと旅だった。彼のポケットには$500のトラベラーズチェックと3万円の現金(このお金もすぐにヘルシンキで日本人に盗まれるのだが・・・・)、旅の道づれにリュックにはランボーの「地獄の季節」と、ボードレールの「悪の華」が入っていた。
出航のドラが鳴り、人々が別れを惜しむように心細いテープで結ばれているとき、流葉のかむっていた帽子が風で海中へ落ちた。彼を見送りに来ていた友人たちが、帽子の方ばかりに気を取られている間に、いつのまにか船は岸壁を離れた。海上の帽子は、彼の未来を暗示するかのように波の間に浮かびながら、見えかくれしていた。(つづく)
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流葉より
最近バリへは、毎年行っている。「どうしてバリが好きなの?」と正面切ってきかれると返答に困るが、なんとなくバリの空気があっているようなのだ。あの湿気をふくんで肌にまとわりつくような濃密な闇の中に身を置くと、なんだか懐かしい感じがして、気持ちが落ちつくのは過去の因縁だろうか。
しいて、バリ好きな理由をあげるとすれば、まず物価が安いこと。これは、ボンビー旅行者の私には、ありがたいことだ。(若い頃に旅をしていたときは、給料の高い国で働いてお金を貯め、物価の安い南の国で、ちびちびと食いつなぐのは旅人の間では常識だった)。
つぎに、人々が、フレンドリーなこと。道を歩いていると、どこからともなく声をかけてくる。暇なときは(たいてい暇なのだが)、馬鹿話をして時間をつぶすことができる。疲れていて、エネルギーがないときには、無視しても気にすることがなく、次の日には笑顔で元気に挨拶してくるバリの人は、気軽につきあえる。それでいて、バリ人は島国の気質というのだろうか、粗野ではなく、繊細な神経をもちあわせている。繊細さは、1日数回、神や悪霊に捧げられる小さなお供え物の、作り方にも現れている。神経が隅々までゆきわったていて手抜きがないのだ。
それから、バリには固有の文化が息づいていること。村の裏道を散歩していると、いつも新しい発見やおどろきがある。また、島全体が劇場空間といわれるように、毎日どこかでお祭りや葬式があり、楽しませてくれる。
とまあ、でっちあげのようなバリ好きの理由を書いたが、私がバリ中毒患者になっていることは確かなようだ。「だけど、バリで毎日なにしてるの?」と聞かれると返事に窮する。「とくに、なにも。」と無責任な答えしか返せないのは、生来からの怠け者のせいだろうか。しかし、私に言わせれば、なにもしないのがバリの正しい過ごし方なのだ。仕事でバリへ来てる人をのぞいて、バリへ行ってまで毎日過密なスケジュールで、観光をするのは疲れるばかりだ。日常の生活の速度を、シフトダウンして、ゆっくりとなにもしないで過ごしてみると、ふだん見えない自分の姿や、他人のことが浮き彫りになって見えてくるのは、私だけだろうか。
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